AIによって生産量が上がった今、 どうしてエンジニアリングが、こんなにも面白くなくなったのか。 最近、それをよく考える。
僕はエンジニアリングマネージャーでありながら、 ずっとプレイヤーでもあった。 人と調整して要件を詰める“ホワイトカラー的な動作”と、 指先を動かしてコードを書く“ブルーカラー的な動作”の、 その両方を行き来していた。
僕にとってエンジニアリングの魅力は、 まさにその“身体性”にあったんだと思う。 自分の手でコードを書き、自分の頭で工夫する。 その中には、創意と癖、そして“鉛”があった。
英語を話すときに日本語訛りが出るように、 僕のコードにも“松崎訛り”があった。 それを見て、「この人の書くコード、味あるな」と 言ってくれる人もいた。 それが僕にとっての喜びだった。
でも今のAI時代、 ほとんどのコードはプロンプトで生成される。 僕は話す。AIが書く。 まるで工場のラインワーカーのように、 ひたすら仕様を流し込み、要件を満たすだけの作業。
気づいたときには、自分が**生産者ではなくなっていた。** もはや“作る”のではなく、“出させる”になっていた。
もちろん、反論はわかる。 「エンジニアの本質は意思決定にある」 「AIでは決められない領域を担うのが人間の役割だ」と。 確かにそうだ。 でも、僕たちが長年味わってきた**クラフト的な喜び**、 “手で作る”ことの楽しみは確実に消えた。
AIが9割の作業を担う今、 人間は高レイヤーに上がっていくしかない。 意思決定をする、文脈をつなぐ、全体を設計する。 それがこれからのエンジニアの形だろう。
でも——ブルーカラーとホワイトカラーが混じり合っていた、 あの“水色の時代”の楽しさは、もう戻らない。
あの頃のエンジニアリングは、 まるで手仕事のようだった。 少し不格好で、でも自分の手の跡が残っていた。 その跡が、美しかった。
今のAIコードには、 速さと正確さはあるけれど、**味がない。**
エンジニアリングがつまらなくなった理由は、 きっと“効率化”じゃなく、“人間の鉛”を失ったからなんだと思う。