スタートアップという幻想

東アジアでは「起業文化がない」とよく言われる。 リスクを避ける傾向が強く、公務員や安定を選ぶ人が多い。 日本の子どもに「将来なりたい職業」を聞くと、いまでも上位に公務員がくる。 この三十年を下り坂で過ごしてきた国にとって、それはある意味当然だと思う。 だけど、よく言われる「スタートアップを目指せ」という掛け声には、どこか無理がある。

今のスタートアップの多くは、 「社会を変える」より「どれだけ儲かったか」が評価の軸になっている。 それを否定はしない。 経済成長の面では必要な活動だと思う。 でも、人間の人生をそこに賭ける理由にはならない。

なぜなら—— もう、そんなにお金は要らない時代だからだ。

食べる物も、娯楽も、日用品も安価に手に入る。 日本が「安い国」になったという声もあるが、 裏を返せば「生きるためのコストが下がった国」でもある。 だからこそ、高級品を大量に得ることへの合理性が薄れている。 それを誰よりも理解しているのは、頭の良い若者たちだと思う。

それでも「スタートアップで成功しろ」と言われる。 でも、成功って何だろう。 資金調達の額か、エグジットの早さか。 そこに精神的な充足がなければ、 結局それは、アメリカでも日本でも「新しい形の出世神話」になってしまう。

本当の意味で起業を勧めるなら、 その先に"社会との対話"が必要だと思う。 「自分のため」ではなく、「自分を通して誰かを助ける」ような動機。 そうでなければ、スタートアップという文化は、 結局また別の嘘をつくことになる。

リッチになることを責めたいわけじゃない。 でも、"それしか語られない社会"は、どこか貧しい。 そして、その貧しさは、 きっとアメリカよりも、日本よりも、世界全体に広がっている。