生産性という幻想

ブルーカラーの時代には、生産性ってすごくわかりやすかった。 誰かの役に立っていることが目に見えたし、 「どれだけ作れたか」「どれだけ運べたか」で、 その日の働きが測れた。

機械を導入すれば効率が上がる。 人を一人増やせば生産量が増える。 すべてが目に見えて接続されていた。

だけどホワイトカラーになってから、 生産性という言葉は、どんどん曖昧になっていった。 なぜかというと——何を生産しているのかが不明確だからだ。

たとえば、 プレゼンテーションを完璧に仕上げたとしても、 企画そのものが通らなければ、会社に何も残らない。 議事録を書いたとしても、誰も読まなければ意味がない。 エンジニアだって、誰にも使われないサービスを作ったら、 それは本来的には生産性ゼロなんだよね。

これがホワイトカラーの難しさだと思う。 体を動かさないぶん、「なぜやるのか」「何をやるのか」という設計が、 すべての出発点になる。 ここを間違えると、どれだけ効率化しても無駄が増えるだけ。 AIを導入しても、意味のないプロセスを高速化しているだけになる。

結局、生産性を測ることの本質は、 スピードでも量でもなく、方向なんじゃないかな。

ブルーカラーが「いかに早く作るか」を考えていたなら、 ホワイトカラーは「何を作るべきか」を考えなきゃいけない。 それを忘れた瞬間、 僕たちはただ“働いているふり”をする人間になる。

生産性を追い求めるあまり、 本当に役に立つことを見失っていないか。 それを問い直すことこそ、 ホワイトカラーの時代における、 いちばん大事な“生産”なのかもしれない。